中国明代の政治家。「陽明学」の祖。一般的には王陽明として知られるが、”陽明”は号。
28歳で進士に合格したが、有力な宦官と対立して貴州省に左遷された。この地で「心即理」「知行合一」など、後の陽明学の原理を確認する。これは知識重視に陥りがちな朱子学の客観的唯心論に対して、認識と実践の統一を図る主観的唯心論であった。
1516年に中央に復帰後は各地の反乱の鎮圧にあたって、軍事的成果を収め、兵部尚書に昇進した。広西の兵乱の鎮圧に成功した帰路に、江西省で没した。
陽明学は江戸時代に日本にも伝えられ、大塩平八郎や吉田松陰らに影響を与えている。
王守仁 |
[王守仁 人物情報]
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