ドイツのバイエルン州で医学者の子として生まれ、鎖国時代の我が国に西洋の文明を伝えた医者・博物学者です。
大学医学部の時代に医学や動植物学、民族学などを学びました。
1823年、長崎・出島のオランダ商館に医師として赴任し、塾を開いて多くの門弟に医学や天文学、地理学などを教えました。
そのため、我が国ではオランダ語を通して西洋の学問を学ぶ蘭学が盛んになりました。
また、塾生たちの協力を得て、日本の歴史や地理、風俗などの調査と研究を行い、「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」を著すなどして我が国をヨーロッパに紹介しました。
1828年に帰国しようとした際に、彼の所持品の中に当時輸出禁止の日本地図が見つかり、いわゆる“シーボルト事件”を起こして一時軟禁されましたが、その後許されて帰国しました。
1858年、日蘭通商条約によって再渡航禁止が解けたために再度来航し、医学を教えたり、幕府の外交顧問を務めたりして我が国に貢献しました。
フィリップ・フランツ・シーボルトシーボルト |
[フィリップ・フランツ・シーボルト 人物情報]
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