日本の美術家・教育者。本名、岡倉覚三。文久2年12月(1863年2月)福井藩士の子として生まれる。父が藩命により横浜で貿易商を営んでいたため、岡倉天心は幼い頃に英語力を身につけた。
1880年東京帝国大学文学部を卒業後、文部省に勤務。東大講師のフェノロサに協力して、日本各地の古美術の調査をおこなった。1890年には20代で東京美術学校(現:東京芸術大学)の第2代校長となり、横山大観、下村観山、菱田春草らを育てた。1898年に東京美術学校騒動を受けて辞職し、同年、橋本雅邦らと日本美術院を創設した。
1904年にはボストン美術館の中国・日本部顧問を務め、日本とアメリカを行き来しながら日本や東洋の文化を内外に紹介している。
岡倉天心は明治の急激な西洋化の中、優れた日本美術の価値を再発見して近代美術の発展に多大な功績を残した。
岡倉天心 |
[岡倉天心 人物情報]
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