日本の彫刻家・詩人。1883年彫刻家、高村光雲の長男として東京に生まれる。東京美術学校彫刻科(現:東京藝術大学)に入学するが、明治の彫刻界の重鎮であり、古い職人気質の父への反発も持っていた。
東京美術学校を卒業後、ロダンの作品と出会い衝撃を受ける。その後、24歳のとき自費でニューヨークに渡り、さらにロンドン、パリに住んだ。1909年に帰国した高村光太郎は日本の封建的な社会風土に反発し、退廃的生活を送るようになる。やがて1912年に長沼智恵子と出会い、退廃生活と決別。1914年に詩集『道程』を刊行、同年智恵子と結婚した。しかし智恵子の実家が破産した後、智恵子は統合失調症となり、1938年に死去。高村光太郎は1941年に智恵子との愛を謳った『智恵子抄』を刊行している。
高村光太郎タカムラコウタロウ |
[高村光太郎 人物情報]
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